イチロー選手の下積み時代 河村健一郎さん、新井宏昌さんとの共同作業 振り子打法の完成

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イチロー選手がブレイクするまで、下積み時代 

イチロー選手の一年目

すぐに二軍で活躍

イチロー選手はすぐさま二軍で成績を残し、3割後半の打率を維持して、7月のジュニアオールスターにも選出され、8回に代打で出場し、有働克也投手から見事勝ち越しホームランを放ちました。結局その試合はイチロー選手のホームランによりウエスタンリーグが勝利し、イチロー選手がMVPを獲得しました。また地元名古屋球場で試合があった時に、両親や友人たちが試合を観にくる中、「良いところ見せてやれ」と葉っぱをかけた所、狙ったようにライトへホームランを放ち、冗談で「もう一本打ってびっくりさせてやれ」とさらに葉っぱをかけた所、またしてもライトへ2本目のホームランを放ち、イチロー選手のその気になった時の実力の発揮する姿に大きい期待を抱き、本人の才能は着実に開花されつつありました。

才能を見込まれ一軍昇格 河村コーチの懸念

そして二軍での活躍を評価され、イチロー選手は7月11日に一軍に昇格しました。打率は2割5分代と高卒新人としては中々の成績を残しましたが、やはり一軍でレギュラーを張るまでの実力はなく、代打や守備固めでの起用がほとんどでした。この事を河村打撃コーチは懸念され、そんな使い方をするくらいなら二軍でたくさん打席に立たせてあげたいという気持ちが強く、一軍に上がるのは時期早朝と判断されていました。

イチロー選手と反りが合わなかった一軍スタッフ陣

結局1年目シーズンは一軍昇格後、二軍に降格する事はなく、シーズンを終え河村打撃コーチや根来二軍監督の育成方針とは少し異なる結果として1年目が終了しました。シーズン終了後、イチロー選手のバッティングを見てみると二軍にいた時よりバッティングが崩れ、すぐさま河村打撃コーチは一軍の選手にイチローの一軍での様子を確認した所、当時の一軍打撃コーチにスイング軌道を上から叩け、ヘッドをボールにぶつけるように打てと教え込まれ、当時高卒1年目のイチロー選手は言う事を聞くしかなく、自分に合わないと分かりながらも、一度は実践してみるもやはり自分には合わず、秋季キャンプのバッティング練習でも頻繁にバットを折ってしまい、イチロー選手の特徴であるバットをしなるようにゆったりとしたバッティングフォームは影を潜めてしまっていました。

山内一弘さん

当時のヘッドコーチは山内一弘さんが務め、山内さんはシュート打ちの名人として大毎オリオンズの4番を打ち、2000本安打を達成、通算本塁打も396本を打ち、落合博満選手が当時在籍していたロッテオリオンズの監督もされた、とても実績のある方でした。しかし、山内さんのイチロー選手への指導方針はヘッドをボールにぶつけ、最短距離で上から振り下ろすのものとなり、イチロー選手の長所とは真逆な指導となってしまいました。また山内さんはとても技術のある方でしたが、言葉使いがあまりうまくなく、監督時代にミーティングがあまりにも長く、話が巡ってしまうため、ベテランの張本勲選手に「結局何が言いたいんだね?」と直接ぶつけられてしまうというエピソードもありました。

また指導者としては技術指導を熱弁する様子から「やめられない、とまらない」のフレーズで有名なかっぱえびせんと揶揄される事もありました。落合博満選手をロッテに入団させたのは山内一弘さんで落合選手も山内一弘さんから野球を教わったと感謝している反面、このようなエピソードも語っていました。

ところが落合自身は「野球を教えてもらったのは,山内さんと稲尾さんだけ。後の5人からは,野球を教わってはいません」と答えている。

山内さんと稲尾さんというのは落合がロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)時代に監督していた二人である。山内一宏は落合が入団してきた時の監督で選手としても一流の成績を残し、バッティングコーチとしての実績も豊富で多くの選手を育ててきた名伯楽である。

しかし、山内と落合の出会いは最悪であった。プロ野球選手になって初めての自主トレでのこと。山内は球団OBで1978年まで監督を務めていた金田正一と二人で新人選手の視察をしていた。

バッティング練習をしていた落合を見ると金田がが大きな声で「こんな打ち方じゃプロでは通用せんぞ」、山内も「そうだね」と同調。落合は反発を覚えたという。

「俺は25歳でプロ入りしたからそういった言い方も免疫ができているけど高校出たばかりの子どもが野球界でもトップの人にそんなこと言われたらなんて思うか?」

後日、このエピソードについて聞かれた際にこう答えている。しかし、山内は落合に見所があったと思ったのか熱心に打撃指導を始める。ところが山内の言うとおりにしても一向に打てない。指導されてもピンとこない。それでも山内は落合に指導を続けてくる。このままではダメだと思った落合は山内にこう告げてしまう。

「山内さんすいません。ダメならクビで結構ですから放っておいてください」

なんと監督からの指導を拒否したのだ。山内は落合の言葉を聞いて指導するのを止めたが、見捨てたわけではなかった。二軍で成績を残した落合を山内は一軍に抜擢。レギュラーとして使った。

出典:https://tenro-in.com/mediagp/189906/

このように山内一弘さんの技術指導はイチロー選手のバッティングスタイルとは合致せず、「やめられないとまらない」性格が本領発揮してしまい、結局イチロー選手の強みを消してしまう結果となってしまいました。

土井正三さん

当時の一軍監督だった土井正三さんは巨人V9時代のレギュラー二塁手として活躍され、偉大なONにも物怖じせず、毒舌で指示や助言をするなどとても硬骨な方でした。名将川上哲治監督の下、緻密な野球とシビアな世界に身を置き、一線級の活躍をされてきましたが、セ・リーグでの野球が染み付き、DH制のある豪快なパ・リーグの野球には反りが合わず、また阪急時代から続いていたオリックスの関西のチームカラーにも合わず、読売ジャイアンツの野球を捨てきれなかった事で選手との溝が生まれてしまいました。象徴するエピソードとして、パ・リーグは同じエンドランのサインの時はとにかく強い打球を打てという方針で、大量得点を狙うための意味合いが強いですが、しかし、セ・リーグ出身の土井正三さんや中村勝広さん両監督はエンドランの時はとにかく転がしてランナーを先の塁に送れと選手に求め、それならば送りバントで良いのではないかと疑問に思うパ・リーグ選手も少なくはありませんでした。

エリート常勝軍団である巨人での生活が長かった土井正三さんとしてはパリーグという舞台で特徴的なプレースタイルであるイチロー選手の扱い方が分からず、才能を伸ばすという事は出来なかったのではないかと思います。しかし、イチロー選手に大きく期待していた事も確かであり、高卒1年目から一軍で40試合も起用しており、イチロー選手との育成方針が定まらない中、試合ではなるべく使いたいという気持ちはあったようです。

このように当時のオリックスはイチロー選手の理解者は居らず、とても居心地の悪い状況になってしまっていました。

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