昭和プロ野球史① 南海ホークス本拠地大阪球場の思い出

プロ野球

難波・ミナミ一等地にあったからこその不思議な球場 昭和のプロ野球 大阪球場

皆さんは南海ホークスの本拠地で大阪府の中心地である難波駅から降りてすぐにある大阪球場を知っていますか?

昔の球場は風情と趣きがあり、はたまた特殊な作りであったため、エピソード含め深掘りをするととてもおもしろいものがあります。

メジャーリーグの球場も街中の一体化して、その土地に合わせた球場作りであるため、グラウンド内も歪な形をしていたりします。そんなメジャーリーグの球場のように昔の球場もその街のシンボルでありたくさんの人の思いと気持ちが残っている球場でした。そんな古き良き昭和パ・リーグの歴史と共に大阪球場を振り返りたいと思います。

大阪球場とは

時代の流れに逆らえず 今はなき大阪球場

現在は都市開発をされて、難波はビル街となっていますが、昭和の時代はそういった一等地に立派な球場がありました。南海ホークスの本拠地として昭和のプロ野球の数々の名勝負の舞台となった大阪球場ですが、1988年を最後に南海ホークスがダイエーホークスに移り変わり、一時は住宅の展示場として活用されていましたが、1998年10月に完全閉鎖され結局取り壊されてしまいました。

出典http://fudoki.web.fc2.com/osaka2.htm

南海ホークス本拠地である大阪球場は南海本線の終点である難波駅南口駅前であり繁華街・ミナミのド真ん中という好立地にあり、球場のスタンド下には球場施設を有効活用するため、店舗・球団事務所はもちろん、ビリヤード、卓球、ボウリング場などを兼ね備えた娯楽施設になっていました。

出典http://hawksism.net/virtual/sub_w/gaikan/02.html

出典:https://masaru-bu.blog.jp/archives/51915162.html

立ち上がると恐怖を覚える内野席

また、一等地がゆえにとても敷地が狭いため、できるだけ多くの観客席を設けようと、スタンドの傾斜は非常に急でいわゆるすり鉢状の内野席となっており、一番上から転げ落ちたらと思うとゾッとするくらいの傾斜は37度にもなっていたとのことです。

またこのような逸話も残されています。

落ちない紙飛行機
まだ戦争の傷痕が街に残る1950年9月。大阪ミナミの超一等地に「昭和の大阪城」は開場した。他を圧するようにそびえる大阪球場。場所は南海電鉄のターミナル難波駅の隣。野村克也、杉浦忠らが大阪のファンを熱狂させた南海ホークスの本拠地だった。

特徴的だったのは、37度の急傾斜だった内野スタンド。酔っぱらいが転げ落ちた逸話もあるが、70年代の南海の屋台骨を支えた藤原満(69)=西日本スポーツ評論家=は「飛行機がよく飛んどったけど、これが落ちてこんのや」と振り返る。

実はこれはファンが飛ばした紙飛行機。「すり鉢状やから、上昇気流が起きるわけ」。超一等地の敷地の狭さをカバーするためのスタンドの急傾斜のせいで、声も反射してよく響く。しかも選手は「すぐそこ」。笑いの本場、大阪人の本能をくすぐる球場だった。

2016/12/26 西日本スポーツ

当時の風景

https://www.nishinippon.co.jp/nsp/sp/image/9967/ 撮影:西日本スポーツ

1950年から始まる黄金期の南海ホークス

そんな大阪球場を本拠地にしていた南海ホークスは戦後間も無くのパ・リーグの主役でした。山本(後に鶴岡と改姓)一人監督の下、1951年にパ・リーグ初優勝を飾ると、そこから3連覇を含み5年間で4度のリーグ制覇。日本シリーズでは読売巨人軍にことごとく敗れましたが、プロ野球界の盟主であるセ・リーグの読売巨人軍のライバル球団として、またパ・リーグの強豪チームとして輝かしいチーム成績を残し続けました。その時代のレギュラー選手であった、一塁飯田徳治、二塁岡本伊三美、三塁蔭山和夫、遊撃木塚忠助は「100万ドルの内野陣」と言われ、走攻守揃ったスター選手たちを観に来るファンたちで大阪球場のスタンドを埋め尽くしたとの事です。

1959年の日本シリーズでは大学時代立教大学で長嶋茂雄選手とチームメイトであり、南海ホークスのエースとして長く活躍した当時2年目の杉浦忠投手が38勝4敗という最高の活躍を見せ、4年ぶりにリーグの優勝を果たし、日本シリーズではその杉浦投手が4連投4連勝の気迫をみせ、ライバル読売巨人軍を倒し日本一に輝きました。その時の大阪球場前をスタートして行われた“御堂筋パレード”は沿道に20万人以上が詰めかけ紙吹雪が乱れ、多くのファンと喜びを分かち合いました。

出典http://hawksism.net/virtual/sub_w/stadium/01.html

野村克也監督退任からの低迷期 以後、復活することはなかった

パ・リーグ初年度の1950年から1966年までの17年間で9度のリーグ優勝を果し、それ以外のシーズンは全て2位という、とてつもない強さで黄金時代を誇った南海ホークスでしたが、1973年に野村克也選手兼監督がチームを優勝を導いたことを最後に低迷期に突入します。野村克也監督は1977年に球団との関係の悪化により退任され、1978年~1988年の11年間は最下位5回、5位5、4位1回と全てBクラスの結果となり、全盛期の南海ホークスの面影はなくなってしまいました。そのため人気もすっかり低迷してしまい、繁華街のド真ん中で球場の外には多くの人がいて、球場入り口近くの場外馬券場も人集りができているのにも関わらず、大阪球場のスタンドだけは閑古鳥が鳴く惨状な状況とよく揶揄されるほどお客さんは全く入りませんでした。ちなみにホークスは1999年に王貞治監督がダイエーホークスをリーグ優勝に導くまで1978年から一度もAクラスに入った時はありませんでした。

古き良きパ・リーグ 、名物ヤジ合戦

昭和のプロ野球と言えばヤジ合戦が名物となっていました。ユーモアのあるヤジから時にはプライベートをほじくり返すヤジが飛び交い、選手もつい集中力を切らしてしまう時も多々あったようです。南海ホークスの低迷期は閑古鳥が鳴くくらいの観客の少なさでしたから応援団のヤジも直接選手の耳に届き、時には観客と選手がやり取りしている場面もありました。ちなみに南海ホークスの主砲である門田博光さんは毎試合電車通勤で大阪球場に通い、ドカベンこと香川伸行さんは自転車でよく球場入りされていました。そのくらい選手とファンが身近な存在だったのかもしれませんね。

そんな昭和のプロ野球を象徴するヤジ合戦のエピソードについて記事が公開されていました。

電鉄3球団しのぎ
大阪球場の南海、藤井寺球場の近鉄、西宮球場の阪急。80年代までのパ・リーグは電鉄会社を親会社とする在阪3球団がしのぎを削った。ヤジや応援も同様だ。藤原は「阪急の人が面白かったな」と笑うが、いずれ劣らぬ名調子だったという。

地元の近大OBの藤原に「あの店に大学時代のツケは払うたか」。飲みに出た翌日は「あれからどこいったん?」。監督兼任の野村がグラウンドに姿を見せると、すぐさま「きのう、藤原が悪口言うとったで」。もちろん、悪口なんか言った覚えはないが、とにかくネタは尽きなかった。

親会社のカラーが濃厚な「鉄道ネタ」も鉄板だった。阪急ファンから「悔しかったら(阪急沿線の高級住宅地の)箕面に住んでみい!」。ミスをした選手への「やった~、やった~、またやった~、○○電車ではよ帰れ~」の合唱も有名だ。

 

2016/12/26 西日本スポーツ

昭和のプロ野球の終わり、南海ホークスの身売り

そして1988年、南海ホークスは身売りをした事で、ダイエーホークスとなり、本拠地も福岡へ移転することになりました。その年は盟友阪急ブレーブスも身売りとなりオリックスブレーブスと変わってしまったため、平成元年という事もありプロ野球の歴史に一区切りついた年でもありました。

南海ホークスとして最後のゲームとなった10月15日の大阪球場での近鉄戦では、南海戦士の最後の勇姿を見るために3万2000人の観衆が詰めかけました。試合後には杉浦がファンの方々に向けて挨拶をして、同級生、長嶋茂雄選手の言葉を借りてなのか「ホークスは不滅です。ありがとうございました、行ってまいります。」との言葉にたくさんの南海ファンが涙を流しました。また、球団歌をトランペットで演奏し、バックスクリーン上の球団旗がゆっくりと降ろされていくシーンは南海ホークスファンからすると心に残るシーンだ思います。

出典https://www.jiji.com/sp/d4?p=nbs630-jpp01807239&d=d4_stc 撮影:時事通信

そんな大阪球場ですが、1963年829日の南海対阪急戦にて雨にのため2時間14分の中断をやむ得なくなりましたが、その後にグラウンドにガソリンを撒いて火を付け水分を蒸発させ試合を再開させという今では考えられない事を実行したというエピソードもあります。この試合は南海ホークスが勝っていた事もあと共に、日本記録ペースで本塁打を量産していた野村克也選手がこの試合でも1本打っていたために記録更新を狙った南海ホークス意向によるものだったみたいです。しかし現在では消防法によりこのような行為は法律で禁止されています。

また意外と知られていないのが、広島を初の日本一に導いた「江夏の21球」の白熱のドラマも大阪球場が舞台でした。

http://crayfish-study.sakura.ne.jp/taka-os302.html

以上が南海ホークスと大阪球場の歴史でした。戦後から怒涛の時代である昭和プロ野球の象徴である大阪の電鉄球団、強豪南海ホークスはこのような華やかしい経歴と苦汁の時代を経験して現代の強豪球団ソフトバンクホークスへと繋がっているのです。今の時代からは中々想像しづらいこともある中たまには古き良き時代に触れてみるのも良い事かもしれませんね。

次回はそんな大阪球場跡地に実際に訪れた時のお話をしたいと思います。

次回 昭和プロ野球史② 南海ホークス本拠地の大阪球場跡地に訪れた時のお話 南海ホークス記念館

昭和プロ野球史③南海ホークスの幻の代打の切り札 あぶさんを求めての旅

昭和野球史④ 野村克也と麻雀 水島新司先生とテンパイたばこ

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